2012年03月29日
清明節と寒食節のお話
日本のお盆に当たる中国の「清明節」は今年が来月4日を中心に3日間休暇する(火・水・木)。春を迎えて自然界の新しいいのちが次々に芽吹く時期であり、墓参とともに、ハイキングなどのアウトドアも奨励されるのがこの時期。そして、「清明節」の直前が一般に「寒食節」とされ、かまどの火を起こさず、あらかじめ準備しておいた食品を食べるという習わしになっている。もっとも、「清明節」の休日は国民的行事だが、「寒食節」の方は実際にはあまり意識されてはいない。しかし、「寒食節」は中国最古の休日の一つであり、その歴史ははるか春秋時代まで遡る。
その昔、晋という国に名君の誉れ高い文公という君主がいた。別名を「重耳」と言い、日本でも小説化されている。重耳は公子として生まれたが、家内のごたごたに巻き込まれ、国を追われ、19年の長きに渡って中国北部の諸国を放浪することになる。付き従う者十数名。その苦難の生活の中、ある日本当に食べるものがなくなって、重耳は旅先で倒れてしまう。家来の一人である介子推は、「食べ物を探してくる。」と言って山の中に一人入り、自分の股の肉を切り取って、野草と煮込んで持って帰り重耳に食べさせた。重耳がその事実を知ったのは随分後のこと。気の遠くなる放浪生活の後、重耳らは晴れて祖国に帰ることとなり、重耳は君主の座に着いた。付き従った者たちは当然のごとく重臣の扱いを受け、股の肉を献上した介子推も、普通であればそこに列なるべきであったが、介子推は「重耳様が君主の座に着いたのは天命のなせる業であり、私が恩恵を蒙ることは道に外れる。」として、年老いた母を背負って山中へ隠遁してしまった。さすがに重耳もそれでは納得できない。それに国人に対しても説明がつかないではないか。その時家来の一人が重耳に助言した。「その山を三方から山焼きすれば、さすがの介子推もたまりかねて出てくるでしょう。」結果、介子推は母を抱いたまま山中で焼け死んだ。重耳はこの一件を記念して、その日、すなわち現在の「寒食節」に当たる一日を「火を起こすことを禁ずる日」とし、それが今に伝わっている。
その昔、晋という国に名君の誉れ高い文公という君主がいた。別名を「重耳」と言い、日本でも小説化されている。重耳は公子として生まれたが、家内のごたごたに巻き込まれ、国を追われ、19年の長きに渡って中国北部の諸国を放浪することになる。付き従う者十数名。その苦難の生活の中、ある日本当に食べるものがなくなって、重耳は旅先で倒れてしまう。家来の一人である介子推は、「食べ物を探してくる。」と言って山の中に一人入り、自分の股の肉を切り取って、野草と煮込んで持って帰り重耳に食べさせた。重耳がその事実を知ったのは随分後のこと。気の遠くなる放浪生活の後、重耳らは晴れて祖国に帰ることとなり、重耳は君主の座に着いた。付き従った者たちは当然のごとく重臣の扱いを受け、股の肉を献上した介子推も、普通であればそこに列なるべきであったが、介子推は「重耳様が君主の座に着いたのは天命のなせる業であり、私が恩恵を蒙ることは道に外れる。」として、年老いた母を背負って山中へ隠遁してしまった。さすがに重耳もそれでは納得できない。それに国人に対しても説明がつかないではないか。その時家来の一人が重耳に助言した。「その山を三方から山焼きすれば、さすがの介子推もたまりかねて出てくるでしょう。」結果、介子推は母を抱いたまま山中で焼け死んだ。重耳はこの一件を記念して、その日、すなわち現在の「寒食節」に当たる一日を「火を起こすことを禁ずる日」とし、それが今に伝わっている。
Posted by えんめい茶本舗 at 12:03│Comments(0)